アインシュタインの特殊相対性理論のルーツは、彼が16歳の時にうたたねで見た夢です。

アインシュタインが16歳の時に昼間うたたねしたときに見た夢は次のようなものでした。

”自分が光と追いかけていく。その速さが光にどんどん近づいていく。光の速さになったら・・・”

彼は目覚めた後にこのことについて考察してみました。
そして、その当時に科学界が直面していたある矛盾に気付きました。
それがどんなものだったのかを知るために、そのころの科学界の状況をご紹介します。

力学においてはニュートン力学が信じられていた。

力学関係では、ニュートン力学が信じられていました。
ニュートン力学は3つの法則から成り立っているます。
第1法則の「慣性の法則」、第2法則の「運動方程式」、第3法則の「作用・反作用の法則」ですね。

ちょっと詳しく言うと、

  • 第1法則は”力が加わらなければ、物体の運動の様子は変わらない”ということで、
  • 第2法則は力によって変わるのは、”速度の変化の仕方”=加速度である、ということで、
  • 第3法則は、物体AからBに力が加わったとき、同じ大きさで正反対の力が物体BからAに加わる、

ということです。

で、このニュートン力学も、もとになる考え方があったんです。

ニュートン力学は、ガリレイの相対性原理をもとに作られた。

ニュートン力学はガリレイの相対性原理をもとにまとめられたものでした。
そうなんです。
特殊相対性理論ができるまで、ガリレイの相対性原理が正しいとされていたんです。

「えっ!?相対性原理ってガリレイのものもあったの?」ってなりますよね。
実はそうなんです。
そもそも”相対性原理”と言うのは、
「どのような慣性系においても、ある変換が可能である」
という事なんですね。

では、ガリレイの相対性原理でどんな変換が可能かというと、”ガリレイ変換”です。
難しそうな名前をしていますが、実はそれほどでもなくて。
例えば
「時速80 kmで走る電車の横を、時速15kmで同じ方向に走ったとき、電車の速さは
\(80 – 15 = 65\)
で時速65kmに見える」
というものです。
他には
「時速60kmで走る車から、進行方向に時速90kmでボールを発射したとき、止まっている人にはボールの速さが
\(60 + 90 = 150\)
で時速150kmに見える」
というのもありますね。
つまり、速さが足し算・引き算できるというものです。

これ、かなりうまくできているんですよ。
私たちが生活している世界においては、ですけどね。
あと、もう一つ。
ニュートン力学はガリレイの相対性原理をまとめたものであるにもかかわらず、ガリレイの相対性原理がなくても成立するんですね。
うまくやればですけどね。

ニュートン力学がうまくいっていたからこそ、ガリレイの相対性原理もセットで信じられていたのですが。
ちょっと問題が出てきましてね。
それを話す前に、別ルートで発展してきた知識についてご紹介します。

別のルートで、光に対する研究が進んでいました。

このころ、光の正体についての研究が、別ルートで進んでいました。
光については、科学界の巨人であるニュートンが光の粒説を主張していたので、それが長らく主流だったのですが。

トマス・ヤングによる光の干渉実験により、一気に光の波説がその勢いを盛り返してきました。
そしてフィゾーの実験により、すでに光の速さまでが測定されていました。
(1849年の事です)
このように少しずつ正体が明らかになってきた”光”。

こうした状況で、別の方向から、光に関するかなり決定的な研究結果が出ました。

マクスウェルの電磁気学から電磁波というものが予言されました。

電磁波というのは、電場と磁場に関する方程式「マクスウェル方程式」から導き出されるものです。
このマクスウェル方程式というのは、1864年にジェームズ・クラーク・マクスウェルさんが発表したもので、これはアインシュタインの生まれる15年前のこととなります。

電磁気学ということで、本来は電気と磁気に関する学問だったのですが。
先ほどのマクスウェル方程式を変形すると、電磁波という電場と磁場が波の様に進んでいく状況が予言されました。
さらに、真空の誘電率と真空の透磁率という、測定できる物理定数を代入して計算すると、電磁波の速さでてきました。

こうしてマクスウェル方程式から計算された電磁波の速さが、フィゾーにより測定された光の速さと非常に近い値を示しました。
このことから、マクスウェルは、「電磁波とは光の事である」と予言しました。

光は電磁波、つまり波である。なら、それを伝える何かが必要、ということで「エーテル」というものが考え出されました。

トマス・ヤングの「光の干渉実験」、マクスウェルによる「電磁波=光の予言」。
この2つで一気に光の波説が主流となりました。

ただ、波はそれを伝える何かが必要と考えられていました。
こういう波を伝える物を、「媒体」と言います。
ですので、当時の人は光の媒体を仮定して、これをエーテルと呼びました。

もしエーテルがあるのなら、地球上にエーテルの風が吹いているはず。

地球が自転しながら太陽の周りを公転している事は分かっていました。
エーテルが、もし何か、例えば太陽に対して静止していたとします。
すると、地球上にエーテルの流れ=風が吹く事になります。
しかも、その風向きは、方向や季節で違うはずです。地軸の傾きによって。

普通、媒体の流れによって波の速さが変わります
なので、光の速さもエーテルの流れで変わると考えられていました。

有名なマイケルソンとモーリーの実験では、光の速さの変化を観測できませんでした。

1887年 マイケルソンとモーリーによって初めて光の速さの変化を観測する実験が行われました。
アインシュタインが8歳の時ですね。
そこから20年ほど追試験がおこなわれました。

光の速さの変化が観測できた、と言う結果も見られましたが、多くは「光の速さは変わらなかった」と言う物でした。

エーテルが存在する前提で、様々な仮説が立てられましたが、どれもイマイチでした。

例えば、地球の動きにエーテルが引きずられるため、地表ではエーテルが静止しているように見える、というものがありました。
しかし、もしそうなら、エーテルが地球に何か影響を、もっと言うなら力を及ぼしている事になります。
この場合、エーテルにより地球の自転や公転にブレーキがかかると考えられます。
もしそうなら、地球の自転や公転が、どんどん遅くなって、止まってしまう事になります。
むしろ、今まで動いてきたのが、不思議なくらい、となりますね。
なので、エーテルを仮定した時から、エーテルと物体は影響し合わない、と仮定していたようです。
なので、この引きずられ説はちょっと具合が悪い事になるんですね。

エーテルの流れにより、物体が縮みするという説も出ました。
これが本当なら、エーテルの影響はどんな方法でも検出できない事になります。
しかしこれも、エーテルが物体と相互作用しないという仮定からして都合が悪いですし。
大体、どんなものでも同じ量で縮むというのも、何となく居心地が悪い気がします。
例えば、鉄も水も氷も空気も、エーテルの流れによって同じだけ縮むというのはちょっとおかしな気がします。
何よりどうやっても検出出来ないものを、わざわざ仮定する必要があるのかと言う疑問も出てきます。

アインシュタインが16歳の頃はこう言う状況でした。ここから11年後に(1905年)特殊相対性理論を発表します。

アインシュタインが16歳のころというのは、

”エーテルがあると言う説も、ないと言う説も、どちらもそれらしく流布されている。”

そんな状況だったわけです。
ただ、光の速さについては、理由は分からないけれど、地球上のどの方向でも、どの時期でも、変わらないと言う結論になりつつありました。

ここから11年かけて、彼がどのような思考の過程をたどったのか?
追体験的に見ていこうと思います。

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