最後は失脚して島流しにあったナポレオンと、最後は部下に裏切られ業火の中生涯を閉じた織田信長

日本ではどうかわかりませんが、フランスにおいてナポレオンは最も誇らしい英雄なんだそうです。
最後は大敗を喫し島流しにあったのですが、それでもなぜ英雄でいられるのか?
そういえば、日本にも最後に味方に裏切られてその生涯を閉じた英雄がいました。
織田信長ですね。

織田信長にファンが多いのはなぜかと私なりに考えてみますと。
以下の通りなのではないかと思います。

  1. 一地方の成り上がり大名の息子でした。
    信長の父親 織田信秀は元々尾張付近の守護代からなりあがった大名です。
    しかも、尾張は周囲を、美濃、駿河と言う強国に挟まれた小国でした。
  2. 絶望的に不利な状況をひっくり返したり、絶体絶命の状況から脱出したりしました。
    桶狭間の勝利や、金ヶ崎からの撤退戦などですね
  3. 何度か包囲網を敷かれながらそれを打ち破りました。
    何度か、というより、ずっと包囲網を敷かれていましたね。
    包囲網の中心人物が変わった行っただけで。
  4. 新しい戦法で勝利を収めました。
    これはもちろん、長篠の合戦ですね。
    鉄砲を使用した集団戦法で武田軍を圧倒したと言われます。
    (最近はちょっとその説の信憑性が揺らいでますが)
  5. 時代の変革者でした。
    おそらくここが信長一番の魅力ではないかと思います。
    彼は、座という古い特権組織を崩して、新しいシステムの楽市楽座を行いました。
    足利将軍をトップにした古い体制を崩して、新しい中央集権体制を敷きました。
    賛否両論はありますが、比叡山を中心とした古い宗教中心の体制を崩して、宗教も国家の一員として組み込まれる新しい体制を築きました。

実はこれ、ナポレオンの魅力と通ずるものがあります。
そのあたり比較しながら見ていきましょう。

ナポレオンの出身1 出身地コルシカ島について

コルシカ島は、地中海で4番目に大きい島です。
イタリア半島の根本あたりになる島なので、一見イタリア領に見えます。
実際私は、ごく最近までコルシカ島はイタリア領と思っていました。

しかし、実はフランス領なのです。
ちなみに、すぐ南にある、コルシカより一回り大きなサルデーニャ島はイタリア領です。
このコルシカ島がフランス領なのには理由がありまして。

もともとコルシカ島は、ジェノバという今はイタリアの一地域になっている国の、植民地でした。
その植民地支配が、めちゃめちゃ厳しくて、島民の不満が爆発し激しい独立運動が何度も起こりました。
まあ、日本風に言うと一揆がしょっちゅう起こったようなものですね。(一揆にしては激しい物だったと思いますが)
そして、ついに独立政府が出来上がりました。

それに手を焼いたジェノバが、一定期間コルシカを貸し出すという事で、フランスに援軍を頼みました。
このフランス軍の圧倒的兵力により、コルシカの独立運動は鎮圧され、ついでにコルシカはフランスのものになりました。
・・・いやいや、貸し出すだけだったのでは?
まあ、借りておいて、そのままなし崩しなんてのは、昔なら結構あったのかもしれませんが。

ということで、コルシカはフランス領なのに、島民は自身をフランス人というよりコルシカ人と思っていて、ついでにフランスから見ても結構外国っぽい扱いだったと思われます。
このころは当然、出身地が出世に影響するものだったので、本来ならナポレオンが出世する可能性はまったくなかった、はずなんです。

ナポレオンの出身2 出自について

ナポレオンは、コルシカ島の二流貴族の息子として生まれました。
ナポレオンのお父さんは、もともとコルシカ独立運動で重要なポストについていましたが、コルシカ島の独立政府がフランスに敗北するころにフランス側に寝返りましてね。
その褒美に貴族と同等の身分をもらったわけです。

ナポレオンのお父さんもなかなかワルですよね。
個人的には、こういう方、好きな方です。
自分の夢のためには、全てを賭けるっていう感じ。
たとえそれを、周りの人が何と言おうと。

さて、このお父さんは、自分だけでなく息子の将来も切り開いてくれました。
お父さんのおかげでナポレオンは、フランス本土の学校に入学する事ができたのです。
当然これにより、ナポレオンに軍人としての道が開かれ、後の英雄ナポレオンにつながるわけです。

まあ、つまり、ナポレオンは、
地方の一市民から皇帝にまでなりあがった訳ですね。
きっとこういった立身出世の話は多くの人に好まれるんでしょう。(私も含めて)

圧倒的に不利な状況を覆した戦闘 イタリア戦役など

イタリア戦役というのは、ナポレオンが脚光を浴びるきっかけとなった一連の戦争です。
とにかくフランス側が圧倒的に不利な状況でした。
何が不利といって、

  • フランス軍4万に対して、オーストリア・サルディーニャ連合軍は合計で6万人。

さらに

  • フランス軍は革命で疲弊していて、装備もボロボロ。満足に食事も出来ないありさま。

ただ一つ有利な点は、

  • 兵士一人一人が、革命の意味・意義を分かっていて、士気が非常に高かった。

ことくらいです。

とにかく、こういう圧倒的に不利な状況を覆すために、ナポレオンは独創的な戦術を取るのですが、それは後でまたお話しします。

 

何度も敷かれる包囲網と、それを打ち破っていくナポレオン。

フランスというより「ナポレオンに率いられたフランス」に対して危機感を抱いた周辺王国が一致団結してフランス包囲網を何度も敷きました。
なぜそんなに危機感を持たれたかといえば、フランスが革命政府の国家だったからです。
革命政府は国王の権力を認めていませんでしたし、事実ナポレオンが脚光を浴び始める前にフランス国王と王妃はギロチンにかけられました。
(ルイ16世とマリー・アントワネットです)
つまり、周辺の王国にとっては、革命政府により成り立っているフランスという国は、脅威であり決して認めることのできない存在でした。

四方八方敵しかいない状況で、ナポレオンがいかにして勝利したのか?
それもまた、絶望的な状況を打ち破った方法と一緒に後でお話しします。

新しい戦法で勝利を収めた。

ナポレオンが取った戦術というのはよく大砲をうまく使ったという事が言われます。
それも確かにあったのですが、実はナポレオンの真骨頂というべき戦術はもう一つありました。
それは「とにかく兵隊を速く移動させる」ということ。

兵隊が速く移動できる事で、以下の様な状況を作っていました。

  • 敵が集結する前に各個撃破すること。
  • 集結した敵の一部を誘い出し、各個撃破すること。

共通するのは、

「敵の移動に先駆けて接近したり、敵を分断したりして、時間的・空間的に自軍が多い状況を作り、各個撃破した」

ということです。

一応大砲についても触れておきますと。
彼は大砲を集中運用して瞬間的な火力を上げ、敵を混乱させる目的で使用したようです。
混乱した軍隊は大きく戦力ダウンします。
つまり、これも見かけ上数的有利を作っていると言えるでしょう。

まだこの頃には「電撃戦」と言う言葉はありません。
これは、戦争に車両が使われるようになった近代戦で出て来る言葉です。
ですが、ナポレオンが行った、

「スピードを持って敵を分断・混乱させ、各個撃破する」

と言う思想は、電撃戦のそれに通じます。

100年以上後の戦術を取り入れて、見事に成功させたというのは、彼が天才だったことの証明でしょう。
そして、この天才性が私達を惹きつけるのかも知れません。

もし彼がいなければ、民主主義は今の様に根付かなかったかも知れません。

そして、これはあえてリストに上げていませんでしたが、
「ナポレオンがいなければ、民主主義は今の様に根付かなかったかもしれない」
という事があります。
なぜか?

民主主義、そしてその根っこにある基本的人権というものは、フランス革命で生まれました。
そして、その考え方は、周辺の王国にとって、非常に危険なものでした。
なぜなら、自分たちの特権が脅かされるからです。

なので、周囲の王国は一致団結してフランス革命をつぶそうとしました。
そして、それにほぼ成功しかけていました。
もちろん、兵力的にも包囲網を敷いた王国連合側が圧倒的だったことは言うまでもありませんが。
フランスは、革命により有能な軍人を自らの手で葬ってしまっていたため、適切に軍を動かす人間がいなくなっていたのです。

パリ陥落も目前に迫り、革命は風前の灯火となっていたその時。
ナポレオンが現れました。

彼が率いる軍団は、連戦連勝を重ねました。
そして、包囲網を打ち破り、革命を絶体絶命の危機から救ったのです。
おそらく、彼の奮戦がなければ、そのまま革命は破壊され、芽生え始めた民主主義は押しつぶされていたと思われます。

たとえこの時点で革命と民主主義が抹殺されていたとしても、おそらくどこかのタイミングで復活していたと思います。
一度芽生えた自由への想いは、そう簡単には消し去られることはないでしょうから。
ただ、その復活までは多くの時間を必要としたでしょうし、そうなるとその後の産業革命や2回の世界大戦などの様子が、かなり変わってきていたと思われます。

こう考えると、ナポレオンは革命の守護者として颯爽と登場し民主主義を守った、まさしく「英雄」と呼ぶにふさわしい人物です。
だからこそ、彼はその最後が悲劇的であるにもかかわらず「英雄」と呼ばれるのだと考えます。