ルネサンスとは何だったのか? その9 神学と科学、その違いについて

※この回で少々紛らわしいところがありました。これについては補足・訂正のページを作りました。
補足・訂正のページ:ルネサンス その9に関する補足・訂正のために 天動説と聖書
なお、本文中で紛らわしい部分には、その近くにイタリック体でそのことを追記します。
(2019年10月30日追記)

不思議大好きの、まんぼうです。
ルネサンスに関する連載も、あと数回を残すところとなりました。
多分、全12回になると考えています。
それでは、前回の予告通り、神学と科学について、その違いにスポットライトを当てつつ考えていきましょう。
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前回の復習

少し前回の復習をしておきましょうか。
中世までは、真理の探究を行う学問として哲学がありました。
その哲学から、中世の普遍論争を通じて、神学が生まれました。
もう一つ現在につながる真理の探究を行う学問が、科学です。
つまり、この3つは根っこが”真理の探究”にあるという点で、共通しているわけですね。
そして、その中の哲学は、現在においてはその目的が(まんぼうには)はっきりわからず、どうやら心理の探究からは手を引いているらしいのです。
つまり、真理の探究は残る2つ、神学と科学にゆだねられたらしいですね。
ということで、ここからは神学と科学の立場について、それぞれ考えていきます。

神学の立場

ここでいう神学は、いうまでもなくキリスト教の神学です。
私は仏教徒ですので、全然詳しくはありませんが、聞きかじりの付け焼刃で紹介しますと、

キリスト教は1神教で、その神様は全知全能です。
この世のすべては、その神様が作り上げました。
その真実(=真理)は、聖書に書かれています。
ここに書かれていることを信じ、実行することで人は救われます。

ということだと思います。
(もし大きく間違っていましたら、コメントで教えてください。)

科学の立場

この辺りは”科学とは何か”というところにかかわってくる、非常に難しいものなんですが、何とか短くまとめてみましょう。

この世の真理は、自然現象に現れています。
よって、注意深く自然現象を観察し、分析し、仮説を立ててそれを実験し、その結果で立証するようにすれば、きっと真理に向かって進めると考えます。
仮に、今まで正しいと考えていた事が、間違っているという実験結果が出たならば、注意深くそれを分析したのち、必要であれば今までの考えを捨てる事もためらってはいけません。

ということだと思います。
なにせ、”科学的である”ということの条件に”反証可能性がある”というのがあるくらいですからね。
つまり、「この説を否定する可能性があることが、この説が科学的であることの条件だ」というんです。
すごいですよね、「間違っていること前提」、とさえ言えるんですから。

つまり、神学と科学の違いは、”今までの考え方に疑いが出た時”に反応の違いとして出てきます。

観測・観察の結果、今までの考え方が違っていることを示したときに、両者の違いがはっきりと出てきます。
神学においては、”神様は間違えることが許されません”。この部分が紛らわしいです。
よって、間違っているのは観測・観察の結果の方、さらにはそんな結果を出してきた人間ということになってきます。
一方、科学では””はなから間違っていることが前提”。
よって、必要とあらば、今までの考え方が間違っていることを認めて、考え方を修正するか、場合によっては考え方を180度変えることも辞しません。
どうです?対照的でしょう?

一例として、天動説と地動説を考えます。

分かりやすい例として、天動説と地動説を挙げます。
ギリシャ時代以来、天動説は”常識”として、疑うことすらされてこなかったものでした。
つまり、地球が宇宙の中心にあって静止していて、星々がその周りをまわっていると考えていたんですね。
私はすごく素直な結論だと思いますよ、これ。
ところが、観測の精度が上がるにつれて、天動説で説明がつかないようになってきました。
実はなんとか説明をつけていたんですよ、本当は。
でもね、それがあまりにも無理矢理感があふれていたんですね。
そんな無茶なことをしなくても、地球が太陽の周りをまわっている、としてやれば簡単に説明できたんですね。
科学はその結論を受け入れました。(時間はかかりましたが)
でも、神学はそれを認めるわけにはいかなかった。
聖書に書かれているように、すべてのものは宇宙の中心である地球を中心に回っていなければならなかったのです。この部分が紛らわしいです。
なので、こういった説(=地動説)を唱えることは神への冒涜である、とするしかなかったんですね。
さらに観測技術が上がりました。
簡単に言うと、望遠鏡の倍率が上がったんです。
それを真っ先に使用したのが、このシリーズ開始のきっかけとなったガリレオさんです。
ガリレオさんが見たのは、月と木星。
特に木星を見たときに、その周りを小さな物体(つまり衛星ですね)が回っている事が観測できました。
今の私たちにとってはあまりにも当たり前のことですね。
これも科学は素直に受け入れました。
ところが、神学にとってはそれも受け入れがたいことでした。
先ほども言いました通り、すべての物体は、宇宙の中心である地球を中心に回っていなければならないのです。
木星なんぞを中心に回る物体があってはならないのです。
でも、見えてしまったものは仕方ない。
できることといえば、それを発表して地動説を支持している人間を弾圧することだったんです。
こういった流れで、ガリレオさんは2回も裁判にかけられ、2度目は屈辱的な宣誓を読み上げさせられることになったわけですね。

一見すると、ガリレオを屈服させた神学に軍配が上がったかのように見えますが・・・

私が思いますに、神学が考え方を硬直させればさせるほど、神学が真理から遠ざかるように周りの人から見えたのではないでしょうか。
なぜなら、実際に見えてしまったものでさえも受け入れず、それを発表した人間を弾圧するというのは、どう見ても間違っています。
神学からは真理に到達できないのではないか?そんな考えが広がったように思います。
それに比べると、”間違っているのなら、それを正していけばいい”という科学の姿勢はある意味潔く、真理の探究にふさわしいと感じられたと思います。
その結果、現在において、真理の探究は、科学がメインで担うことになりました。

ということで、今回はここまで
次回は、哲学と科学の違いについて考えていくことにします。
実は、最初考えていたよりも難しいテーマだったんですよね、これ。
単純に、「哲学は言葉で、科学は数学で考える」とか、「哲学は抽象的で、科学は具体的」とか、そんな風に考えていたのですが・・・
悩みに悩んでまんぼうが出した結論とは!?

それではまた、次のおもしろ不思議でお会いしましょう。
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